autumn in Tokyo dec2013 500pt

「国際化」と学問の独創性--元タイ留学生の見たニッポンーー (4)

学問の自由の不在、お題目だけの国際化 4.自由で気楽な意見交換や活発な議論がない米国に留学した当初、私にとってたいへん新鮮に思えたのは、もし、 学生がわからなければ,クラスの中で徹底して質問をし、教師もそれに対して学生が理解するまで答えるし、もし、 十分に説明できなければ、次回の授業でもぅ一度説明することを約束してくれたことであった。また、学会に出席しても、前の分科会では発表者であった研究者が、フロアにいて熱心にノー卜を取り、質問をする聴衆の一人となっている ことも、タィでも日本でも経験したことがなかった。 思い返すと、中学では私が質問をしすぎるといって先生から注意を受けた。それ以来、私は 絶対に質問をしないことにしたが、大学に入って、米国人の教師のクラスではわからないことをいくらでも質問することが許されたし、教師も誠実に答えてくれた。ただし、タィ人の先生には決して質問をしなかったし、日本人の先生には授業の後で個人的に聞きにいった。日本の大学でも、タイとほぼ同様であった。したがって、私は米国に行って初めて、のびのびと自分本来のやり方でクラスで自由に質問や討議ができたといえる。 さて、日本で研究者となって会議や学会に出席しても、きわめて厳粛な雰囲気で形式を重んじ、ていねいで硬い言葉づかいで会議は行われた。直接的な表現をなるべく避けて、婉曲に、互いを傷つけないように気遣いながら注意深く議事等が進行し、私は持病の肩凝りがひどくなった。それでもひるまずに質問しようとすると、なぜか冷たい視線が私に集まり、健康診断で胃にポリープが三つできていると言われた。 つまり、会議では、日本の国会答弁同様、あらかじめ誰かによって用意されたシナリオ通りに進められ、シナリオにない質問や議論は許されず、わからないことはわからないまま、たとえ反論してもすでに結論は用意されているため、前向きで建設的な批判や議論もないまま意見の発表が一方通行的にあり、たまに、その場の座長くらいがひとことふたことコメントを加えて終了することが普通であった。また、学会では研究の本質に関わる質問はほとんど出ずに、次の発表者に交代することが通例であった。ある学会で、なぜ、みんな、あまり質問しないのだろうかと、オーストラリア人の学者に 尋ねてみたことがある。彼は、「日本の学会では三回までしか質問してはいけないんですよ。僕も昨日と今日とで三回聞いてしまったから、もう、質問はしません」と苦笑いしながらウィンクして見せた。 そして、ご承知のように、会議や学会が終わつてから、廊下や喫茶室等で個人べーースの・論 や情報交換がひそひそと行われ、次の会議や学会に備えるといつた具合である。これは、本の議論でもないし、意見交換でもなく、単なる伝達と根回しの世界でしかない。 前項で横並びの発想に触れたが、ここでも同様に矛盾したことが平気で横行しているといえる。このような、窮屈で、本質的な意見交換が行われず、個人のアイディアが生かせず、もし、仮に個人の意見を主張すれつぶされるだけで、独創性は殺して周囲に合わせなければならない状態が現実であるにもかかわらず、良い仕事をして業績を残せと言われる。これは、要するに管理者である何者かが研究者の研究内容ま で立ち入って管理しようという思想が根底にあるからではないのか。学問研究の自由と研究者への信頼が存在しない状態が、日本の多くの学術研究の現場に普通のことでなければ幸いであるのだが。

Salisbury 1 07152018

「国際化」と学問の独創性--元タイ留学生の見たニッポンーー (3)

国の予算からは外国旅費がどうしても出ないとわかった後、私が自費でタイに調査に行こうとしても、毎回のように、「里帰りですか。いいですね」と言われたり、「あなたばかりが海外に行っているのを他の研究者はどう見ていると思うのか」などと詰問されたりした経験を通して、次第に慣れっこになってしまい腹も立た なくなったが、ここは黙って言わせておいて研 究成果を見てもらぅしかないと思ってきた。こ の考えは今後も変わらない。しかし、周囲の日 本人の目には、私はょほどの頑固者か、わがま まな人間に映ってきたかもしれない。 学問の自由の不在、お題目だけの国際化^. 4.自由で気楽な意見交換や活発な議論がない米国に留学した当初、私にとってたいへん新 鮮に思えたのは、もし、学生がわからなければ,クラスの中で徹底して質問をし、教師もそれに対して学生が理解するまで答えるし、もし、十分に説明できなければ、次回の授業でもぅ一度説明することを約束してくれたことであった。また、学会に出席しても、前の分科会では発表者であった研究者が、フロアにいて熱心にノー卜を取り、質問をする聴衆の一人となっていることも、タィでも日本でも経験したことがなかった。 思い返すと、中学では私が質問をしすぎるといって先生から注意を受けた。それ以来、私は 絶対に質問をしないことにしたが、大学に入って、米国人の教師のクラスではわからないことをいくらでも質問することが許されたし、教師も誠実に答えてくれた。ただし、タィ人の先生には決して質問をしなかったし、日本人の先生 には授業の後で個人的に聞きにいった。日本の 大学でも、タイとほぼ同様であった。したがって、私は米国に行って初めて、のび のびと自分本来のやり方でクラスで自由に質や討議ができたといえる。 さて、日本で研究者となって会議や学会に出席しても、きわめて厳粛な雰囲気で形式を重んじ、ていねいで硬い言葉づかいで会議は行われた。直接的な表現をなるべく避けて、婉曲に、互いを傷つけないように気遣いながら注意深く議事等が進行し、私は持病の肩凝りがひどくなった。それでもひるまずに質問しようとすると、なぜか冷たい視線が私に集まり、健康診断で胃にポリープが三つできていると言われた。 つまり、会議では、日本の国会答弁同様、あ らかじめ誰かによって用意されたシナリオ通りに進められ、シナリオにない質問や議論は許さ れず、わからないことはわからないまま、たとえ反論してもすでに結論は用意されているた め、前向きで建設的な批判や議論もないまま 意見の発表が一方通行的にあり、たまに、その 場の座長くらいがひとことふたことコメントを加えて終了することが普通であった。また、学 会では研究の本質に関わる質問はほとんど出ずに、次の発表者に交代することが通例であっ た。ある学会で、なぜ、みんな、あまり質問しないのだろうかと、オーストラリア人の学者に 尋ねてみたことがある。彼は、「日本の学会では三回までしか質問してはいけないんですよ。僕も昨日と今日とで三回聞いてしまったから、もう、質問はしません」と苦笑いしながらウィンクして見せた。 そして、ご承知のように、会議や学会が終わつてから、廊下や喫茶室等で個人べーースの・論 や情報交換がひそひそと行われ、次の会議や学会に備えるといつた具合である。これは、本の議論でもないし、意見交換でもなく、単なる伝達と根回しの世界でしかない。 前項で横並びの発想に触れたが、ここでも同様に矛盾したことが平気で横行しているといえる。このような、窮屈で、本質的な意見交換が行われず、個人のアイディアが生かせず、もし、仮に個人の意見を主張すれつぶされるだけで、独創性は殺して周囲に合わせなければならない状態が現実であるにもかかわらず、良い仕事をして業績を残せと言われる。これは、要するに管理者である何者かが研究者の研究内容ま で立ち入って管理しようという思想が根底にあるからではないのか。学問研究の自由と研究者への信頼が存在しない状態が、日本の多くの学術研究の現場に普通のことでなければ幸いであるのだが。  

บรรยากาศธรรมชาติในโรงแรมญีปุ่่น

“การเข้าสู่ “นานาชาติ” ของญี่ปุ่น –จากสายตา อดีตนักศึกษาไทยในญี่ปุ่น (2)

“การเข้าสู่นานาชาติ” ของญี่ปุ่น –จากสายตา อดีตนักศึกษาไทยในญี่ปุ่น (2) แน่นอน ฉันเองได้รับการศึกษาไม่เพียงแต่ในประเทศไทย แต่ยังได้รับการศึกษาทั้งในญี่ปุ่นและสหรัฐอเมริกา ฉันมักจะถูกมองว่า ฉันค่อนข้างแตกต่างจากคนไทยทั่วไป หลังจากเรียนจบ เดินทางกลับไปสอนที่มหาวิทยาลัยธรรมศาสตร์ คนก็มักจะพูดว่า ฉันไม่เห็นเหมือนกับคนไทยทั่วไป ซึ่งเป็นเรื่องยาก ที่จะบอกได้ว่า วัฒนธรรมของประเทศไหนที่มีอิทธิพลและมีผลกระทบอย่างมากต่อความนึกคิดของฉันมากที่สุด    แม้ว่าฉันตั้งใจเลือกวิธีที่เป็นธรรมชาติที่สุดสำหรับตัวเอง ถึงกระนั้นก็ตาม ฉันก็ยังอดมีความต่อต้านเล็กน้อยกับวิธีการคิดของญี่ปุ่นไม่ได้ที่ว่า ถ้ากรอบนอก ถ้าคนญี่ปุ่นยังไม่ได้ตกลงหรือตัดสินใจอะไร จะเริ่มต้นลงมือทำอะไรก่อนไม่ได้ ตัวอย่างเช่น ลักษณะพิเศษของวิธีการวิจัยของญี่ปุ่น คือ แม่แบบของการวิจัยจะถูกจัดเตรียมด้วย “รูปแบบ” ก่อน จากนั้นจึงจะสอดใส่ […]

「国際化」と学問の独創性--元タイ留学生の見たニッポンーー (2)

もちろん、私自身はタイでだけでなく日米での教育も受けたお陰か、一般のタイ人とは多少 異なつているようで、タイに帰ればタイ人とは違うと見られるし、今日の私にいずれの文化が 最も大きく影響しているとはなかなか断定し難いのは事実である。しかし、私自身にとつて最 も自然な方法を常に選択しているつもりではあるのだが、それでも外側のフレームが決まらな いと何も始まらない日本のやり方には少なからず抵抗がある。 例えば、日本人の研究の方法の特徴は、まず先に研究のテンプレートのようなものが用意さ れていて、その枠組みの中に要素を後から埋め込んでいくと一応の形が完成されるといった具 合で、研究の本質は、その過程で考える人が多い。しかし、私自身にとってやりやすい方法は、 自分が気になって仕方ないことについて、あれこれ考えたり調べたりして、研究テーマの本質 を見極めたうえで、初めて全体の構成を組み立てるといったやり方であり、どうも、典型的な 日本人の研究のアプローチの仕方とは正反対なようである。日本のやり方は、研究成果の量産 が可能であるかもしれないが、国際的に通用する独創的な研究成果は、果たしてどのくらい出 てくるのか疑問である。 私の専門領域は社会言語学の中でもとくに日•タイの対照研究であるので、調査研究を進める、っえで、常にタイや米国に行って調査したり、文献収集をしたり、あるいは研究者同士で意見交換をしたりすることが不可欠である。 ところが、日本の国立の研究所や大学には外国旅費の予算がきわめてわずかしか措置されていない。その原因は、どうやら海外に行くことがたいへんに特別なことであって、何か一種の「ご褒美のようなものと見なされてきた伝統が公務員の間に、明治以来今日まで息づいているということのようだ。 しかし、途上国のように、もともと財政的な裏付けが貧弱なところなら文化や教育に十分な 予算をつぎ込めないのも致し方ないが、一時はニユーョークやロサンゼルスを買収しかねないほどであった日本が、研究者•教員の研究のための海外渡航費を準備できないというのは、要するに「他の大部分の者が国内にいるのに、一部の者たちだけが外国に行って、いい思いをするなんて不公平だ。みんな同じであるべきだ」という横並びの発想が根強くはびこっているということなのだ。今後もこの考え方でいくならば、日本の研究はいつまでも国内だけの狭い視野のもとに続けられ、海外の研究者との交流は遅々として進まず、日本人の研究は欧米の研究の請け売りに過ぎないという海外での評価は変わらないことは明らかであろう。

Japanese onsen

การเข้าสู่ “นานาชาติ” ญี่ปุ่น –จากสายตา อดีตนักศึกษาไทยในญี่ปุ่น (1 )

การเข้าสู่ “นานาชาติ” ญี่ปุ่น–จากสายตาของอดีตนักศึกษาไทยในญี่ปุ่น บทความนี้ตีพิมพ์ในนิตยสาร “Joining Hearts” เป็นภาษาญี่ปุ่น ฉบับที่ 31 เดือนเมษายน-พฤษภาคม ปี พ.ศ.2542 เขียนโดย ศาสตราจารย์ ดร. ปรียา อิงคาภิรมย์ ไปเรียนและทำงานที่ญี่ปุ่น   หลังจากที่ฉันได้รับทุนการศึกษาจากรัฐบาลญี่ปุ่นในปีพ.ศ.2517 ฉันใช้เวลา 4 ปีในการศึกษาและใช้ชีวิตในญี่ปุ่นเพื่อให้ได้ใบปริญญาโท กลับมาให้ทางบ้านดีใจ อย่างไรก็ตาม ในเวลานั้น เป็นสิ่งที่เป็นไปไม่ได้ที่จะเรียนและได้รับปริญญาเอก ในสาขาทางด้านศิลป์ จากมหาวิทยาลัยญี่ปุ่น ฉันจึงตัดสินใจไปเรียนต่อเพื่อทำปริญญาเอกที่ประเทศสหรัฐอเมริกา ในปี พ.ศ.2528 […]

「国際化」と学問の独創性--元タイ留学生の見たニッポンーー (1)

「国際化」と学問の独創性--元タイ留学生の見たニッポンーー 来日して仕事をするよぅになつて 一九七四年に日本政府奨学金を受けて日本 留学し、修士を修了まで四年間、日本で勉強 し、生した後、当時、日本の大学の文科系で は取得が絶祟的.だつた博士号を取るために留学した。 途中のブランクも入れれば、合計 11年間、日米で過ごしたことになる。 1985年、タィに帰り、母校のタマサート大学 で日本語を教えていたが、1988年に、再び日本に来て仕事をするように なった。 再来日した当時、日本ではちよ、ちょうどバブル経 済のために、まるで世界中を買い占めるかのような勢いで企業が海外に進出していた。 同時 に、多くの外国人も労働力として日本社会に入 り込んできていた。そこで巷間、盛んに流布し ていた流行語が「国際化」であった。 その「国際化」の一環だったのか、私は九0年に水谷修先生が当時所長を務めておられた文 化庁所管の国立国語研究所日本語教育センタ 1に、初めての外国人の正規の研究者として採用され、用され、日•タィの対照言語学を研究すること になった。そこでは、自由にのびのびと研究を するUCバークレーのリベラルな気風に馴染ん でしまっていた私には、初めての異文化体験と も思えることにしばしば遭遇し、留学生時代に は決して出会うことのなかった日本社会や組織 の様々な面を見ることになつた。 仕事を通じて見えてきた日本の社会 1.職場の同僚 この8年あまり、国立国語研究所に勤めて感じたことの中で、特記すべきは、同僚の暧かさや外 国人の私の立場を理解してくれる人たちが多かったということである。幸運であつたのは、同 僚たちと研究上の意見交換ができ、悩みを分かち合うことができたことだ。このことがなかつ […]

国際フォーラム  平成8年12月15日発行 財団法人 自治体国際化協会

外から見た日本 「なぜ?」 国立研究所日本教育センター 主任研究官(社会言語学) インカピロム プリヤー 「怪しい目線」 あれは、四年前のできごとでした。私 は、ある私立大学で日本人の学生にタイ 語を教えていました。新学期になって、今年はどんな学生がタイ語を勉強にくるのかしら と楽しみにして教室に入りました。   例年、タイ 語を取る学生はそれほど多くはないので すが、何と、その年は四年生の男子学生 I人しかいなかったのです。 彼は 一、二 年生のときにタイ語を取つていて、とて も真面目でおとなしい学生であることは 知つていました。  何人かのクラスで語学を教えるより、一対一で教えるほうが、教師も学生も緊張して疲れてしまいがちです。 おまけに彼はおとなしく無口な,学生で すから、私がいくら説明したり、いろい ろな話を聞かせてみても、私とはI度も 視線を合わせず、なぜか彼の視線は私の 胸のあたりをじつと見ているのです。  はじめは大して気にもとめていません でしたが、あまりにも彼が私の胸のあた りばかり見るので、なんだか落ちつかな くなつてきました。

ฟอรัม นานาชาติ พิมพ์เมื่อ วันที่ 15 เดือน ธันวาคม ปี ค. ศ.1996

หัวข้อ:  มุมมองญี่ปุ่นจากภายนอก “ทำไม?!”        เรื่องที่เกิดขึ้น เป็นเหตุการณ์ที่เกิดเมื่อสี่ปีที่แล้ว ฉันสอนภาษาไทยให้นักศึกษาญี่ปุ่นที่มหาวิทยาลัยเอกชนแห่งหนึ่ง มันเป็นภาคการศึกษาใหม่ ปีนี้ ฉันเข้าห้องเรียนด้วยความอิ่มเอมใจ อยากรู้ว่าจะมีนักศึกษาจากไหนมาเรียนภาษาไทย เช่นทุกปี มีนักศึกษาไม่กี่คนที่เลือกเรียนภาษาไทย ด้วยความแปลกใจ ในปีนั้นมีนักศึกษาผู้ชายที่เลือกเรียนภาษาไทยเพียงคนเดียวเท่านั้น  ฉันรู้ดีว่า เขาเป็นนักศึกษาที่เอาจริงเอาจังในการเรียนอย่างมาก ตอนที่เขาเป็นนักศึกษาเรียนภาษาไทยตอนที่อยู่ชั้นปีที่หนึ่งและปีที่สอง     การสอนนักศึกษาในห้องเรียนที่มีนักศึกษาเรียนหลายคน กับการที่ต้องสอนนักศึกษาตัวต่อตัวนั้น แนวโน้มก็คือทั้งผู้สอนและผู้เรียนต่างก็ตื่นเต้นและเหนื่อย  นอกจากนั้น เขายังเป็นนักเรียนที่เรียบร้อย ไม่ค่อยพูดจาอะไร ดังนั้น ไม่ว่าฉันจะอธิบายเท่าไร หรือเล่าเรื่องราวต่างๆให้เขาฟัง […]